人間はあらゆる経験に際して直感的に価値判断を行うようにできている。(キャンリトル)
その経験は個性と非常に密着している。その個性ゆえに人と同じ経験をしているようでも違っている。
脳の神経回路に刷り込まれた価値基準によって自分の行動を評価し、いろいろな感情のままに生きている私たちであるとすると、そのような価値基準が出来上がるまでに何らかの指導が必要である。脳の神経回路の形成は外部からの刺激に影響されて作られているからである。行動の善悪の規範は環境から与えられるものであり、それが教育の意義であろう。
はっきりした価値観のもとで育てられた子供は揺るぎのない信念を持つかもしれないが、環境が変化したときには案外もろく崩れてしまうかもしれない。それとは反対にはっきりした価値観も目標もない社会というのは、育っていく子供にとって自己形成が困難ではなかろうか。されど学歴や偏差値のみで人を判断する社会では望ましい価値観が育ちをもうない。
子供が巣立っていく環境で望ましい価値観の提示が必要であると考える反面、成人した人や老人がいつまでも子供と同じ価値観を引きずっていても良いのであろうか。
発育ざかりの子供や青年にとって大きな夢を描く事は必要であり、微笑ましいことでもある。人から賞賛されたいという欲求も強くて良いであろう。
されど欲求を求める心も年相応に枯れていかなければならないのではなかろうか。
年老いたときには欲求に執着することなく、自らの価値を問うこともなく、この世で何の役にも立たない自分を受容できるだけの包容力を身につけるのも一考である。
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